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【立ち読み】

『サラバンド』-ボストンマラソン爆弾テロの犠牲者に捧ぐ-

『サラバンド』とはバロック時代を中心に発展した三拍子の緩やかな古典舞曲の意。

 何の音なのか分からない。ただそれは鼓膜を振動させているだけに過ぎない。どこにいるのか何をしているのか分からない。ただ眠らせてほしい。何度も同じ言葉が浮かぶ。しかしその言葉は虚しく、あるいはあまりにも力無く脳から消える。それらの言葉は手からするりと放れてしまった風船のように虚無な空へと消えていく。意識と身体は離別している。残された身体は焦げたオイルの中に沈んでいる。もがいても対岸など到底見つかりそうもない。いつしか眠りに落ちた。

 暫くとはどれくらいの長さなのか分からないが眠りから眼を覚ました。覚醒とは程遠い意識の深淵から、それはまるで永久凍土に永らく埋もれていた絶滅した動物のように、冷やかに硬く閉ざされている。

 考えるということはまるで出来ない。思考が絶対零度の中で凍り付くように、また目を閉じ眠りについた。

 再び眼を開いた。広大に拡がる自我の辺境?そのような場所があるのかどうか分からない。ただそれは無垢な世界にいたような残像が残っている。それは難破船から乗り移った小さなボートに孤独で暗闇が支配する北海を漂っているようでもあった。オールを動かす力はなく、ボートは自然の流れに任せている。

 何かの音が聞こえる。暫く濃霧の白い霧の奥から聞こえる音に耳を澄ました。人の声なのだろうきっと、はっきりとしたことは分からない。何度も同じ言葉が繰り返し聞こえ、ようやく人の声ということが分かった。しかし、男性なのか女性なのか分からない。言葉は言葉という意味性を持たず、単なる音にしか過ぎなかった。眠らせてほしい、そう口にしたはずだがそれは声として出たのか分からない。また泥水のような中を漂い、力もなく深い眠りに落ちた。

 空は一面厚い雲に覆われている。陽の光はここまでは届かない。色彩を失った空の下に続く欄干のない長大な橋を1人虚ろに歩いて行く。いや歩いているのだろうか。その歩みはあまりにも遅い。次第に霧が深くなってきた。欄干のない橋だ。落ちるかもしれない。しかし恐怖心など微塵もなかった。落ちたところで自分自身がどうなろうと関係がない。

 遠くから何かの音が聞こえる。ただまだ深い霧の中を歩んでいる。何も視界には入らない。歩みを止めた。なぜ今まで歩みを続けていたのだろうか。どこに行く当てもないのだから。あるとしたら業火で焼き尽くされた世界へ迷い込むだけだ。

 目が覚め、意識が徐々にはっきりとしてきた。誰かが話しかけてきた。
「あなたの名前は何ですか?」

 その意味することは分からない。言葉はまだ無意味性にしか過ぎず、反射的に口を開いた。それが答えになったのか分からない。周囲からは何かのビープ音がしていたが、それもまた意味することは分からなかった。誰かが何かを言っていたが、答えることは出来ず、覚醒とは程遠い深い泥水の中を暫く漂った。

 意識がまるで深い朝霧が静かに晴れていくように、その中を歩みながら徐々にはっきりとしてきた。周囲を見渡してみる。様々な機械から規則的にするビープ音、看護師の足音などが混ざり合っている。そうか、ここは病院なのか。左腕には点滴用のカテーテル、鼻に酸素を供給するチューブがあるのが確認が出来た。

「あなたの名前は何ですか?」

 男性が声をかけてきた。そう、それは男性なのだろう、きっと。なぜそんな下らない質問をするのだろうと思いながらも僕は僕の名前を答えた。住所も質問されたが、意識が混濁して声にはならなかった。

 その男性が姿を消した後、朝霧のような舞台のカーテンがゆっくりと開くような感覚があった。

 断絶していた脳の思考回路が繋がり、電流か何かが流れるような感覚の中、また男性が話しかけてきた。また名前と住所を聞かれた。僕はそれに対して答えた。今度は別の人、そうだ母親だ。僕に話しかけてきた。しかし何を言っているのか聞き取れなかった。

「胃洗浄をおこなって、今は命に別状はありません」

 かろうじてその言葉が分かった。男性は医者ということが判断がついた。今と言っていたが、その前はどうだったのだろうか。口にしようとしたが、上手く言葉にならない。

 「本日の計画停電はおこなわれないことになりました」とアナウンスが流れた。そうか、あれが原因だったのか。医者に今は何日なのか尋ねた。地球軸が僅かにずれてから3日が経過していた。3日前のことの記憶が徐々に暗闇から明るみに向かって歩むように戻ってきた。

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